2009年05月06日
2009年04月26日
日曜日
今日は雨が降ったり、晴れたりと変な天気でしたね。

昼から青江のジャスコにいってきました。
そこは、売り場から屋上の駐車場までカートを押して上がれるように長いスロープがあります。
わが子2人が駆け下りているのを見て、僕も幼少のころ同じようにしてたなあと懐かしくなりました。

岡山もいろいろとスーパーができました。 昔は天満屋ハピータウン、ジャスコ、ユニードくらいしかなかったのにいまではふじうら、ハピーズ、ハローズ、マルナカ、ニシナなどなど、しかも24時間営業の店まで・・・ コンビニ勢も昔は定価販売が当たり前でしたが、今ではスーパーみたいに安売りしたり、単身用の惣菜を売ってたりとスーパーもコンビニもお客様のニーズにあわせて常に変化しています。
私も常に進化して患者様に満足していただくことはもちろんのこと感動をあたえられるような歯科医師になれるように努力していきたいとおもいます。
2009年04月19日
岡山城特別講演会
日曜日は、山陽新聞社のさん太ホールで、講演会があったので聴きにいきました。
講演会といっても歯科関連ではなく、宇喜多秀家と関が原合戦についてというものでした。
宇喜多秀家は、備前岡山の戦国大名で秀吉に寵愛されて五大老にまでなった人で、岡山城を築き、山陽道を南下させて城下(表町界隈)を通るようにした現在の岡山の基礎をつくった人です。1時間半に亘る講演でとても興味深いものでした。 秀家は、関が原の合戦で敗軍し、35歳の時、八丈島に島流しされ、免罪されることなく84歳の生涯を終えました。
その講演のなかで九州の島津や広島の毛利は、西軍でありながら(毛利は長門1国になったものの、)存続が許されたのに、なぜ宇喜多は、おとりつぶしになったかという話がありました。 それまで一枚岩だった家臣団が豊臣秀吉の死後分断してしまって、宇喜多家自体が脅威ではなくなってしまったからということでした。
それは今の世の中の組織でもあてはまることで、みんなが一致団結しないとその組織はすぐにもろくも崩れ去るということです。 その点なかの歯科のスタッフは、団結力が強く、強い絆で結ばれているので安泰たと思いました。 そんなことを考えながらさん太ホールをあとにしました。


講演会といっても歯科関連ではなく、宇喜多秀家と関が原合戦についてというものでした。

宇喜多秀家は、備前岡山の戦国大名で秀吉に寵愛されて五大老にまでなった人で、岡山城を築き、山陽道を南下させて城下(表町界隈)を通るようにした現在の岡山の基礎をつくった人です。1時間半に亘る講演でとても興味深いものでした。 秀家は、関が原の合戦で敗軍し、35歳の時、八丈島に島流しされ、免罪されることなく84歳の生涯を終えました。
その講演のなかで九州の島津や広島の毛利は、西軍でありながら(毛利は長門1国になったものの、)存続が許されたのに、なぜ宇喜多は、おとりつぶしになったかという話がありました。 それまで一枚岩だった家臣団が豊臣秀吉の死後分断してしまって、宇喜多家自体が脅威ではなくなってしまったからということでした。
それは今の世の中の組織でもあてはまることで、みんなが一致団結しないとその組織はすぐにもろくも崩れ去るということです。 その点なかの歯科のスタッフは、団結力が強く、強い絆で結ばれているので安泰たと思いました。 そんなことを考えながらさん太ホールをあとにしました。

2009年04月16日
よろしくお願いします。
皆様はじめまして。 4月から中野歯科クリニックで勤務することになりました福田です。 高校卒業してからというものずーっと広島に住んでいたので19年目にしてやっと郷里に戻ってきました。
まずは自己紹介がわりに私の足跡を紹介させてください。 高校を卒業して、一人暮らしがしたかったのもあり、広島大学に入学しました。 6年間基礎と臨床をしっかり学んで??なんとか卒業できました。 卒後はいろいろ迷いましたが、大学院に進学しました。 当時は、勤務医として働き始めたらこれからずーっと5センチ四方くらいの口の中をみていかないといけないんだから何か違う面から患者様に貢献したという思いや、人前で話すのが苦手なので克服できるかなあという思いもあったりして、院生になることを決意しました。大学院生活では、IADR(歯科界では最大の学会)での発表でバンクーバーにいかせてもらったり、なによりも物事を論理的に考える力を養うことができました。 院を卒業したのが、28。 やっと社会人になれたわけです。
その後数年大学に残り、臨床・研究・教育に打ち込みました。 その後へき地での地域医療に携わりたかったので、大学の関連病院に勤務を希望しました。 前職場は、広島県の端っこでちょうど鳥取・島根県境あたりにあり、中世ではたたら(古来の製鉄技法)の大製鉄地帯だったところです。 雪がふれば数日豪雪のため外出できないお宅もありますし、冬は長靴に雪かきというスタイルが欠かせませんでした。診療では、患者様には辛抱強く通っていただき、私のほうが支えられてばっかりで感謝しております。
春はコギ(イワナの亜種)釣りに山菜パーティー、夏は、比婆牛のバーベキュー、秋は子持ち鮎、そばの会(食べ物ばかり・・・)冬はスキー(ほとんど子供が小さいためいけませんでしたが)と季節を肌で感じながら満喫することができました。ほんとに町民の皆様にはお世話になりました。
長くなりましたが、なかの歯科ではいままで以上に自己研鑚に努めるのはもちろんのこと、歯科はどうしても敷居が高くなりがちですが、その敷居をバリアフリーにできるようにがんばっていきますのでよろしくお願いします。

まずは自己紹介がわりに私の足跡を紹介させてください。 高校を卒業して、一人暮らしがしたかったのもあり、広島大学に入学しました。 6年間基礎と臨床をしっかり学んで??なんとか卒業できました。 卒後はいろいろ迷いましたが、大学院に進学しました。 当時は、勤務医として働き始めたらこれからずーっと5センチ四方くらいの口の中をみていかないといけないんだから何か違う面から患者様に貢献したという思いや、人前で話すのが苦手なので克服できるかなあという思いもあったりして、院生になることを決意しました。大学院生活では、IADR(歯科界では最大の学会)での発表でバンクーバーにいかせてもらったり、なによりも物事を論理的に考える力を養うことができました。 院を卒業したのが、28。 やっと社会人になれたわけです。
その後数年大学に残り、臨床・研究・教育に打ち込みました。 その後へき地での地域医療に携わりたかったので、大学の関連病院に勤務を希望しました。 前職場は、広島県の端っこでちょうど鳥取・島根県境あたりにあり、中世ではたたら(古来の製鉄技法)の大製鉄地帯だったところです。 雪がふれば数日豪雪のため外出できないお宅もありますし、冬は長靴に雪かきというスタイルが欠かせませんでした。診療では、患者様には辛抱強く通っていただき、私のほうが支えられてばっかりで感謝しております。
春はコギ(イワナの亜種)釣りに山菜パーティー、夏は、比婆牛のバーベキュー、秋は子持ち鮎、そばの会(食べ物ばかり・・・)冬はスキー(ほとんど子供が小さいためいけませんでしたが)と季節を肌で感じながら満喫することができました。ほんとに町民の皆様にはお世話になりました。
長くなりましたが、なかの歯科ではいままで以上に自己研鑚に努めるのはもちろんのこと、歯科はどうしても敷居が高くなりがちですが、その敷居をバリアフリーにできるようにがんばっていきますのでよろしくお願いします。2009年04月13日
お知らせ
3月末を持ちまして、生熊Dr.はなかの歯科クリニックを
退職いたしました。
4月より福田Dr.がなかの歯科のメンバーに加わりました。
生熊先生の部屋は福田先生の部屋として変更することに
なりました。
引き続き福田先生の部屋も覗いてみてください。
退職いたしました。
4月より福田Dr.がなかの歯科のメンバーに加わりました。
生熊先生の部屋は福田先生の部屋として変更することに
なりました。
引き続き福田先生の部屋も覗いてみてください。


